不正な法律に抵抗できるか? ロールズの公民的不服従とは
不正な法律に抵抗できるか? ロールズの公民的不服従とは
社会には様々なルール、特に法律があります。私たちは通常、これらのルールに従って生活しています。しかし、もし、その法律が「どう考えてもおかしい」「不公平だ」と感じたら、私たちはそれに従わなければならないのでしょうか? あるいは、従わないという選択肢はあるのでしょうか?
このような問いに対して、哲学者のジョン・ロールズは彼の主著『正義論』の中で「公民的不服従(市民的不服従)」という概念を論じています。これは単なるわがままな反抗とは異なります。今回は、ロールズが考える公民的不服従について、どのような行為で、なぜ必要とされ、どのような条件の下で正当化されるのかを分かりやすく解説します。
公民的不服従とは何か? ロールズによる定義
ロールズは、公民的不服従を以下のように定義しています。
「公共的、非暴力的、良心的な、法に反する政治的行為であって、通常は法に従う多数派によって支配される正義体制の正義感覚に働きかけることを目的とするもの」
少し難しい言葉が並びますが、分解して考えてみましょう。
- 公共的、非暴力的: こっそり行われる行為ではなく、社会全体に開かれた形で行われます。また、他人や財産を傷つける暴力的な手段はとりません。
- 良心的な: 個人的な利益や感情によるものではなく、不正義に対する深い倫理的な信念に基づいています。
- 法に反する政治的行為: 抵抗したい特定の法律や政策に直接反する方法(例:デモ、座り込みなど)をとったり、あるいは別の法律に意図的に違反したりすることで、その不正を訴えます。これはあくまで政治的な目的を持った行為です。
- 正義体制の正義感覚に働きかける: 公民的不服従を行う人は、社会全体が共有しているはずの「正義の感覚」に訴えかけようとします。つまり、「私たちの社会のルール(正義の原理)から考えても、この法律はおかしいですよね?」と問い直す行為なのです。彼らは社会の根本的な正義の原理を否定しているのではなく、むしろそれをより忠実に実現しようとしていると言えます。
これは、単に自分の都合が悪いからルールを破る行為や、社会体制そのものを暴力的に転覆させようとする革命的行為とは明確に区別されます。
なぜ公民的不服従が必要だと考えられるのか?
ロールズは、完全に公正な社会は現実には存在しないと考えます。民主的な手続きによって法律が作られたとしても、そこに間違いや不正義が含まれる可能性は常にあります。
議会での議論や選挙、デモや請願といった通常の政治的手段を尽くしても、深刻な不正義が是正されない場合があるかもしれません。特に、少数派の権利が多数派によって侵害されるようなケースでは、通常の民主的手続きだけでは救済が難しい場合があります。
このような状況で、社会が共有する正義の原理への信頼を守り、不正義を是正するための「最後の手段」として、公民的不服従が考えられるのです。公民的不服従は、社会の構成員が、自分たちの社会が目指すべき正義の姿を見失っていないことを示す行為とも言えます。
公民的不服従が正当化される条件
ロールズは、公民的不服従が単なる無秩序にならないために、それが正当化されるためのいくつかの条件を示しています。高校生の皆さんが具体的な社会問題を考える上でも参考になる視点です。
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深刻かつ明白な不正義に対する抵抗であること 公民的不服従は、個人的な不満や些細なルール違反ではなく、基本的人権の侵害(例:言論の自由や投票権の不当な制限)や、公正な機会均等の否定といった、社会の基本構造に関わる深刻な不正義に対して行われるべきだとされます。特に、ロールズが『正義論』で最も重要視する「正義の第一原理」(基本的な自由の平等)や、「公正な機会均等」に関わる不正義が主な対象となります。
- 生徒への問いかけ: 些細な校則違反と、人権に関わるような法律への抵抗では、何が違うのでしょうか? ロールズの考えから説明できますか?
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通常の政治的手段を尽くしても効果がなかったこと 請願、デモ、選挙での訴えなど、法律の改正や政策変更を求めるための通常の民主的な手段をすべて試みたにもかかわらず、状況が改善されなかった場合に限り、公民的不服従が最後の手段として検討されます。
- 生徒への問いかけ: なぜ、いきなり法を破るのではなく、まず通常の政治活動を行う必要があるのでしょうか?
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社会の安定を損なわない範囲で行われること 公民的不服従は、社会全体の正義感覚に訴えかける行為ですが、同時に法を破る行為でもあります。あまりに多くの人が、あるいはあまりに過激な方法で無秩序に法を破れば、社会の基盤そのものが揺らいでしまいます。そのため、公民的不服従を行う人々は、自分たちの行動が社会全体の安定を崩壊させないか、他の集団による同様の不服従行為を招きすぎないか、といった点も考慮に入れる必要があります。彼らは、自分たちの社会が共有しているはずの「公共的な正義感覚」に則って行動し、その感覚への信頼を示すことで、社会の安定を維持しようとします。
- 生徒への問いかけ: 多数決で決まったことに納得できない場合でも、少数派はどこまで法に従うべきでしょうか? 公民的不服従は、多数決による民主主義とどのように両立すると言えるでしょうか?
具体的な例と考えるヒント
公民的不服従の歴史的な例としては、アメリカのキング牧師による公民権運動や、インドのガンディーによる独立運動における非暴力抵抗などが挙げられます。これらの運動は、当時の法律や制度が人種差別や植民地支配といった明白な不正義を含んでいたことに対し、非暴力的な手段で抵抗し、多くの人々の「正義感覚」に訴えかけることで、社会を動かしました。
もし、皆さんの住む社会で、ロールズの条件に当てはまるような「不正義」があると感じた場合、どのように行動することが考えられるでしょうか?
- 学校のルールや社会の法律について、「これは公正ではないのでは?」と感じた時、まずどのような行動をとるのが適切でしょうか?(例:先生や議員に相談する、署名活動をする、SNSで発信するなど)
- もし通常の手段が尽きたと感じた場合、ロールズの条件(深刻さ、手段の尽くし方、社会への影響)を満たすような公民的不服従の方法は考えられるでしょうか? 具体的にどのような行動が、ロールズの定義する「公共的、非暴力的、良心的」な行為と言えるでしょうか?
まとめ
ジョン・ロールズが『正義論』で論じた公民的不服従は、単なる個人的な反抗ではなく、公正な社会を維持・改善するための、正義感覚に基づいた責任ある行為として位置づけられます。不正義に対して、非暴力的に、公共的に、そして良心に基づいて抵抗することは、社会が共有する正義の原理への信頼を示すことであり、より公正な社会を実現するための重要な手段となりうるのです。
ロールズの公民的不服従の議論は、私たちが暮らす社会のルールとどう向き合うか、不正義に対してどのような態度をとるべきかについて考える上で、貴重な視点を与えてくれます。