なぜ「原初状態」から考えるのか? ロールズの社会契約論と『正義論』の出発点
社会のルールはどう決める? ロールズの問いと「原初状態」
高校の倫理や政治経済の授業で、私たちは社会の仕組みやルールについて考えます。「公正な社会とは何か?」「私たちはどのようなルールのもとで生きるべきか?」こうした問いに対して、哲学者のジョン・ロールズは『正義論』という本で一つの答えを提示しました。
ロールズが社会の公正なルールを考える上で、その出発点としたのが「原初状態(original position)」という概念です。これは歴史上の出来事や現実の特定の場所を指すのではなく、あくまで私たちが公正な社会のルールを考えるための思考実験です。
では、なぜロールズはこの「原初状態」という思考実験から議論を始めたのでしょうか。そして、それはかつて倫理で学んだかもしれない「社会契約論」とどう関係があるのでしょうか。
社会契約論の伝統とロールズ
社会のルールや国家の正当性を考える上で、過去の哲学者は「社会契約論」という考え方を用いてきました。ホッブズ、ロック、ルソーといった哲学者は、自然状態(国家や社会がない状態)を想定し、人々がそこから抜け出すために互いに同意して社会や国家を作る、という「社会契約」を結んだと考えました。
この社会契約論は、「社会のルールは、そこで生きる人々の同意に基づいて作られるべきだ」という考え方を提示しました。これは非常に重要な視点です。しかし、現実には、社会のルールを決める話し合いに参加する人々は、それぞれの立場や能力、価値観、生まれた環境などが異なります。そうした違いがあると、どうしても自分に有利になるようなルールを選んでしまいがちです。これでは、本当に公正なルールを決めることは難しいかもしれません。
「原初状態」とは何か? なぜ必要なのか?
ロールズは、社会契約論の「人々の同意に基づいてルールを決める」という考え方を引き継ぎながらも、その同意が真に公正な状況で行われるためにはどうすれば良いかを考えました。そこで登場するのが「原初状態」という思考実験です。
「原初状態」では、社会のルールを決める話し合いの参加者は、「無知のヴェール(veil of ignorance)」というものに覆われています。このヴェールの背後にいる参加者は、次のような自分に関する特定の情報を持っていません。
- 自分がどんな才能や能力を持っているか(運動が得意か、頭が良いかなど)
- 自分がどんな社会的な地位や階級に属するか(金持ちか貧しいか、親の職業など)
- 自分がどんな特定の価値観や人生計画を持っているか(特定の宗教を信じているか、どんな趣味があるかなど)
- 自分がどんな性別、人種、年齢などか
- 自分が生きている社会が、歴史上のどの時代、どの経済・文化レベルにあるか
しかし、参加者は、社会に関する一般的な知識(経済学の基本、心理学、社会学など)や、人間が基本的な自由や権利を求めること、資源が限られていることなどは知っています。
つまり、「原初状態」+「無知のヴェール」とは、「もし自分が、社会のあらゆる立場の誰かになる可能性があるとして、どんな社会ルールなら受け入れられるだろうか?」と考えるための状況設定なのです。
ロールズは、このような無知のヴェールに覆われた原初状態であればこそ、参加者は自分の個人的な利益や偏見に基づかず、誰にとっても公平だと思える基本的な社会のルールを選ぶことができると考えたのです。これは、公正なルールを決めるための「公平な手続き」を保証しようとする試みと言えます。
【授業での問いかけヒント】
- 「もしあなたが、明日から始まる新しいクラスで、自分がどんな生徒になるか(勉強が得意か苦手か、リーダーシップがあるかおとなしいか、友達が多いか少ないかなど)全く分からない状態で、クラスのルールを決めるとしたら、どんなルールを提案しますか?」
- 「そのルールは、例えば『成績が一番良い人が一番多くのクラスの共有備品を使える』というルールになりますか?それとも、『皆が最低限の権利や機会を持つ』ことを保障するルールになりますか?」
- 「なぜ、自分が誰になるか分からない状態だと、特定の誰かにだけ有利なルールを選びにくいのでしょうか?」
原初状態で選ばれるルール
ロールズは、原初状態において、人々は最も不利な状況に置かれる可能性を最大限に考慮してルールを選ぶだろうと考えました(これを「マキシミン・ルール」と呼びます)。自分が社会の最も恵まれない立場になる可能性もゼロではないからです。
そして、この原初状態から導かれる公正な社会の基本原理として、ロールズは有名な「正義の二原理」を提示します。(正義の二原理の詳細については、[別途記事へのリンク]を参照してください。)
重要なのは、「原初状態」という一見非現実的な思考実験が、現実社会で直面する「どうすれば公正なルールを作れるか」という難しい問いに答えるための、強力なツールとして機能しているという点です。私たちは皆、それぞれ異なる立場や価値観を持っていますが、公正さを考える際には、一度そうした「自分」を脇に置き、まるで原初状態にいるかのように普遍的な視点から考えてみる必要がある、とロールズは示唆しているのです。
【授業での問いかけヒント】
- 「『原初状態』という思考実験は、現実の政治や社会問題を考える上で、どんな役に立つと思いますか?」
- 「私たちの社会のルール(例:税金の制度、教育制度、医療制度など)を、もしあなたが無知のヴェールの後ろにいるとしたら、どのように評価しますか?改善する点はありますか?」
まとめ
ロールズの『正義論』は、「公正な社会の基本ルールは、誰もが自分の立場を知らない『原初状態』であればこそ、公平な手続きによって合意される」という考え方を出発点としています。この思考実験は、単なる机上の空論ではなく、私たち一人ひとりが、自分がどのような状況に生まれるか分からないという究極の公平な視点から、社会のあり方を根本的に考え直すための招待状と言えるでしょう。
倫理や政治経済を学ぶ上で、『正義論』の「原初状態」というアイデアは、公正さや正義について深く考えるための、非常に重要な手がかりを与えてくれます。