どうすれば多様な人々が共に生きられる? ロールズの『重なり合う合意』を解説
どうすれば多様な人々が共に生きられる? ロールズの『重なり合う合意』を解説
現代社会は、様々な考え方、価値観、文化を持つ人々が共存しています。それは豊かな社会であると同時に、意見の対立や社会の不安定化を招く可能性もはらんでいます。
このような多様な社会で、公正な社会のルール(正義の原理)は、どのようにしてすべての人から受け入れられ、社会全体を安定させることができるのでしょうか。ジョン・ロールズは、『正義論』の議論を発展させる中で、この問いに答えるための重要な概念として「重なり合う合意(overlapping consensus)」という考え方を提示しました。
「重なり合う合意」とは何か?
ロールズが考える「重なり合う合意」とは、多様な包括的ドクトリンを持つ市民が、それぞれ自分の信じる理由から、同じ政治的正義の構想を支持する状態のことです。少し難しい言葉が出てきましたので、それぞれ説明しましょう。
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包括的ドクトリン(comprehensive doctrines): これは、個人の人生観、宗教観、哲学、道徳観といった、人生のあらゆる側面に関わる深い価値観や信念体系のことです。例えば、「全ての人間は神によって平等に作られた」「人間の幸福は物質的な豊かさよりも精神的な充足にある」「社会の進歩は自由な競争によって生まれる」など、人それぞれが信じている様々な考え方です。現代社会には、多様でしばしば相容れない包括的ドクトリンが存在します。
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政治的正義の構想(political conception of justice): これは、社会の基本的な制度(憲法や主要な法律など)を規律するための原理や基準のことです。ロールズの場合は、「公正としての正義」、つまり正義の二原理がこれに該当します。政治的正義の構想は、特定の包括的ドクトリンに偏らず、全ての市民が共有できる公的な理性に訴えかけるものとして提示されます。
「重なり合う合意」は、これらの包括的ドクトリンと政治的正義の構想の関係性を示しています。それは単に「みんなが多数決で決めたから従う」「とりあえずみんなで妥協しよう」という一時的な合意や、特定の包括的ドクトリンを他のドクトリンが受け入れるという形ではありません。
そうではなく、多様な包括的ドクトリンを持つ人々が、それぞれが信じる異なる理由や価値観に基づきながらも、結果として共通の「政治的正義の構想」(例:ロールズの正義の二原理)を支持するという状態です。
例えで考えてみましょう
異なる宗教を持つ人々が、それぞれの宗教的な教えの中で、「信教の自由」という政治的な原理を支持する場合を考えてみます。
- キリスト教徒: 「神は全ての人間に自由な意思を与えたのだから、信教の自由は神の教えにかなっている」という理由で信教の自由を支持する。
- 仏教徒: 「慈悲の精神に基づけば、多様な考え方を認め合うことが大切だ」という理由で信教の自由を支持する。
- 世俗的なヒューマニスト: 「個人の自由と尊厳は最も重要であり、自己決定権には信教の自由が含まれる」という理由で信教の自由を支持する。
彼らは、信教の自由を支持する理由は全く異なります。それぞれの深い人生観(包括的ドクトリン)から出発しています。しかし、その異なる理由から、共通の政治的な原理(信教の自由)に賛成し、これを社会のルールとして受け入れます。これが「重なり合う合意」の一例です。彼らの包括的ドクトリンが、政治的正義の構想(信教の自由という原理)の周りで「重なり合って」いる状態と言えます。
なぜ「重なり合う合意」が重要なのか?
ロールズは、特に『正義論』発表後の議論を通して、正義の原理が単に哲学的・道徳的に優れているだけでなく、多様な考え方を持つ現実の市民が実際に受け入れ、社会が安定して持続可能であることの重要性を深く考えるようになりました。
どんなに公正な原理であっても、それを信じる人々がごく一部に限られていたり、多くの人々が不満を抱えていたりする社会は、不安定で長続きしないかもしれません。社会の安定は、市民がその社会の基本構造を正当だと認め、自発的に協力する意欲を持つことにかかっています。
「重なり合う合意」は、まさにこの安定性を説明するための概念です。特定の包括的ドクトリンを無理強いすることなく、多様な人々がそれぞれの立場で納得できる形で共通の政治原理を支持することで、社会はより深く、より安定した形で統合されるとロールズは考えたのです。
これは、現代社会の最も根本的な課題の一つである「多様性の中でいかにして共存し、共通のルールに基づいて安定した社会を築くか」という問いに対する、ロールズからの重要な提案と言えます。
授業での問いかけや議論のヒント
- 皆さんのクラスや学校にも、色々な考えを持つ人がいると思います。クラスのルールや学校の校則など、多様な皆が納得して守れるルールはどのように決められるでしょうか?(「重なり合う合意」の考え方を身近な例に適用してみる)
- もし、あるルールを支持する理由が人によって全く違うとしても、そのルール自体にみんなが賛成できれば、それは社会の安定につながるでしょうか? それとも、理由が違うと結局問題が起きるでしょうか?(理由の一致ではなく、原理の一致による合意の意義を考える)
- あなたが考える最も大切な価値観(包括的ドクトリン)は何ですか? その価値観に基づいて、どんな社会のルールなら支持できますか? 他の人の価値観と比べてどうでしょうか?(生徒自身の包括的ドクトリンと政治原理の関係性を意識させる)
- 社会の中には、どうしても「重なり合う合意」の輪に入れないような、極端な考え方や他者を傷つけるような考え方もあります。ロールズは、そのような考え方をどこまで社会の中に含めるべきだと考えたのでしょうか?(政治的正義の構想が受け入れられる範囲について考察する)
「重なり合う合意」の考え方を生徒の皆さんと一緒に掘り下げることで、多様性が豊かな社会を築く上で、単なる多数決や妥協ではない、より深い社会的な合意のあり方について考えるきっかけを提供できるでしょう。
ロールズの『正義論』は、理想的な社会の姿を描くと同時に、その理想を現実の多様な社会でいかに実現し、維持していくかという問いにも真剣に向き合っています。「重なり合う合意」は、その問いに対する重要な答えの一つなのです。