なぜ人々は公正な社会ルールを受け入れる? ロールズの「安定性」の議論
なぜ「正しいルール」だけでは社会は続かないのか? ロールズの「安定性」の問い
高校で倫理や政治経済を教えている先生方は、『正義論』におけるロールズの「正義の二原理」や「無知のヴェール」といった概念について、生徒に分かりやすく説明することに心を砕かれていることと思います。これらの原理が「公正な社会のルール」を生み出す考え方であることは、比較的イメージしやすいかもしれません。
しかし、ロールズの議論は単に「公正なルールをどう決めるか」で終わりではありません。彼は、その公正なルールに基づく社会が「安定している」、つまりルールが人々に受け入れられ、長期にわたって維持されていくことの重要性も深く考えていました。
考えてみてください。どんなに素晴らしいルールでも、もし誰もそのルールを守ろうとしなかったり、すぐに破られてしまったりするなら、その社会は成り立ちません。先生方が生徒に「なぜルールを守るの?」あるいは「どうすれば良いクラスを続けられるの?」と問いかけるとき、それはまさにルールが「安定して守られる」ことに関わる問いでしょう。ロールズもまた、公正な社会がどのようにして持続していくのか、という問いに向き合ったのです。
この記事では、ロールズがなぜ「安定性」を重視したのか、そして人々が公正な社会ルールをなぜ自発的に受け入れるようになるのか、という彼の考え方について解説します。生徒たちが社会のルールや規範について考えるきっかけとなるよう、授業での問いかけのヒントもご紹介します。
公正な原理は「受け入れられやすい」性質を持つ
ロールズは、「公正としての正義」の原理(基本 Liberties の平等、公正な機会均等、格差原理)が選ばれること自体が、その原理が人々に受け入れられ、社会が安定する上で重要な要素だと考えました。
なぜでしょうか。まず、これらの原理は「無知のヴェール」という公正な手続きから導かれています。人々は、自分自身の有利・不利を知らない原初状態という条件の下で、誰もが納得できるであろう原理を選びます。この「公正な決め方」から生まれたルールだからこそ、人々は「これは公平だ」と感じやすく、受け入れようという気持ちになりやすい、とロールズは考えました。
また、正義の二原理の内容そのものにも、人々が受け入れやすい理由があります。
- 第一原理(自由の平等): 誰もが基本的な自由を平等に持つことは、個人の尊厳に関わることであり、広く受け入れられやすい価値観です。
- 第二原理前半(公正な機会均等): 同じ能力や意欲があれば、生まれや育ちに関わらずチャンスが与えられるべきだ、という考えも多くの人が公平だと感じるでしょう。
- 第二原理後半(格差原理): 社会的な格差があっても、それが最も恵まれない人々の利益を最大にする形であるべきだ、という考え方です。これは、社会の協力によって生み出された利益を、一番困難な立場にいる人にも配慮しながら分配しよう、という互恵的な(お互いに利益になる)考え方に基づいています。
これらの原理は、特定の誰かだけが得をするのではなく、社会全体の協力関係の中で、特に不利な立場にある人にも配慮する互恵性の考えを含んでいます。人々は、自分が公正に扱われている、あるいは社会全体が互恵的な関係の上に成り立っていると感じるとき、その社会のルールを自発的に支持しやすくなります。
安定性の鍵は「正義の感覚」
ロールズが考える安定性は、単に力で押さえつけたり、罰によって従わせたりするだけの一時的なものではありません。それは、社会のメンバーが正義の原理を理解し、それを「良いことだ」「正しいことだ」と感じ、その原理に従って行動しようとする「正義の感覚(sense of justice)」に基づいた安定性です。
この「正義の感覚」は、生まれつき持っているものではなく、公正な制度の下で生活する中で、後天的に育まれると考えられています。
- 相互性の学習: 子供はまず、親など身近な人々からの愛や承認を受ける中で、特定の権威への愛着や信頼を育みます。
- 連帯感の形成: 次に、学校や地域社会などで、共通のルールを守って協力することで、仲間との連帯感や信頼関係を学びます。皆がルールを守るからこそ、自分も安心してルールに従える、という相互性を経験します。
- 原理への愛着: そして、公正な社会制度の下で生活し、その制度が自分自身や他の人々を公正に扱っていることを理解するにつれて、人々はその制度の基盤となっている正義の原理そのものに対して、肯定的な感情や愛着を抱くようになる、と考えられます。人々は、公正な社会に貢献することが自分自身の善(より良い生き方)の一部であると感じるようになるのです。
このように、「公正としての正義」に基づく社会は、それ自体が人々に「正義の感覚」を育む環境となり、その感覚がさらに社会の安定性を高める、という好循環を生み出すとロールズは考えました。人々は、単に義務だからルールを守るのではなく、「そうすることが正しいから」「お互いにとって良いことだから」という内面的な動機から、正義の原理に従うようになるのです。
授業での問いかけのヒント
ロールズの「安定性」や「正義の感覚」の議論は、生徒が日頃感じている「なぜルールって必要なんだろう?」「どうして守らなきゃいけないんだろう?」といった素朴な疑問に繋げることができます。
- 問いかけの例1: 「学校のルールや、クラスの係活動のルールについて考えてみよう。どんなルールなら、みんなが『守ってもいいかな』『これは公平だな』と感じると思う? それは、ロールズが『公正な決め方』や『公正な原理』について考えたことと、どう繋がるかな?」
- 問いかけの例2: 「もし、あなたがクラスでリーダーになったとして、みんなに気持ちよく協力してもらうには、どんな雰囲気や関係性が必要だと思う? ロールズは、公正な社会では人々が『正義の感覚』を持つことが大切だと言いました。それは、あなたが考えた『気持ちよく協力してもらうための関係性』と似ているかな?」
- 問いかけの例3: 「ルールを守る理由って、先生に怒られるのが怖いから? それとも、守るのが当たり前だと思うから? ロールズは、人々が『正しいことだから』という理由で自発的にルールに従うことが、社会が安定するために大切だと考えました。君たちの周りのルールについて、どんな理由で従っているか話し合ってみよう。」
これらの問いを通じて、生徒たちは単に「ルールがある」という事実だけでなく、ルールがどのように生まれ、なぜ守られ、それが社会の安定とどう関わるのか、といった深いテーマについて考えることができるでしょう。
まとめ
ジョン・ロールズの『正義論』は、単に理想的な正義の原理を示すだけでなく、その原理が人々に受け入れられ、社会が長期にわたって安定するための条件についても深く考察しています。ロールズは、公正な手続きから導かれた正義の原理そのものが人々に受け入れられやすい性質を持ち、さらに、公正な社会制度の下で生活する中で育まれる「正義の感覚」が、社会の持続的な安定性の鍵となる、と考えました。
この議論は、私たちがなぜ社会のルールに従うのか、そしてどうすれば公正で協力的な社会を築き、維持していけるのか、という問いを考える上で重要な視点を与えてくれます。ぜひ、授業の中で生徒たちと共に、ロールズの「安定性」の考え方について話し合ってみてください。